山崎神明社 - 安城市山崎町
社号標には明治42年9月 改建立とされている。
そんでもって第一鳥居は靖国鳥居なんだ。
燈籠には『丸に立ち葵』
これが社紋だろうか。
参道を通って第二鳥居は神明鳥居。
白くて綺麗だね。
平成8年建立とな。
平成8年建立とな。
境内は広々として風通しがいい。
手水舎。
水盤文字彫り深さは6cmとなかなかのものだ。久しぶり。
その手水舎の裏の方には公園があって遊具がいくつかある。
ウサギ : もうっ。あなたっていつもそうね。都合が悪くなればいつも知らないふりしてっ。
ライオン : え~ そうかなぁ だって覚えていないものは覚えてないしなぁ~
リス : まぁまぁ おふたりさん、こんなに天気もいいことなんだし仲良くして一緒に遊ぼうよー
メチル : そうだよ、ウサギさんライオンさん。リスさんの言う通り、仲良くしてここに遊びにくる子供達とも楽しく遊ぼうね。
昭和6年10月生まれの、阿…玉取り、吽…子取り 岡崎現代型。
親(?)の前足から逃れようとする子供がユニークだ。
ここで注目してもらいたいのが狛さんの尻尾の穴。
まったく穴が開いていない狛さんや、指ほどの大きさが多い印象でしたが、ここまでのものは記憶には無かったように思う。
拝殿から見下ろしてみるの図。
そういえばここ、地名にも城跡という文字があるように昔は山崎城が建っていたそうな。
引用↓
山崎城は安城合戦においてとても重要な城だった。というのは、山崎城跡から東をみるとよくわかる。東には田が続いていて、その先には岡崎城がある。
山崎城の位置は、とても見晴らしがよく、岡崎城の松平氏が織田氏の守る安洋城をせめた場
合、どのくらいの軍隊がどのようにせめるのか一目でわかります。
このため山崎城はとても重要な城だった。
山崎城は1547年、松平広忠にそむき織田信秀にしたがった松平信孝によって築かれた。
松平信孝は、この山崎城1547年打って出て、岡崎の渡河原という矢作河原で戦い、岡崎城をおびやかした。
また次の年、信孝は織田氏が岡崎小豆坂で敗北した後、自力で岡崎をせめようと出兵し、明大寺合戦で敗北し、討死した。
この後、織田氏の武将が守っていたが、1549年松平広忠が殺され今川義元が安洋城にせめた。そのとき(3月19日)今川氏の作戦により、山崎城は落城した。
社殿裏側には山崎城の空堀の遺構もあるそうですが、すみません、訪れたときは知らなくて確認し忘れました。
本殿。
瓦の流造りでいいのかな。
だとしたら昔は何社と呼んでいたんだろうね(゜_゜ )?
お城マニアも多いこともあり、検索すればそこそこヒットします、な、山崎神明社なのでした。
※南側の道は田園の直線道路なので、第一鳥居を撮影するときは後ろに下がりすぎて車に轢かれることのないように気をつけてくださいね。